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岡城(おかじょう)は、豊後国直入郡竹田(現在の大分県竹田市大字竹田)にあった日本の城(山城)である。「臥牛城(がぎゅうじょう)」、「豊後竹田城(ぶんごたけたじょう)」とも呼ばれる。 == 歴史 == 岡城の築かれた天神山は標高325メートル、比高95メートル、城域は、東西2500メートル、南北362メートル、総面積は23万4千平方メートルに及んだ。 伝承では、文治元年(1185年)に緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりであるという。その山城は、南北朝時代の建武元年(1334年)に後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族〔志賀氏は、鎌倉時代に緒方氏(大神氏)を滅ぼして豊後の武家の盟主となった大友氏の一族である。〕の志賀貞朝によって拡張され、岡城と名付けられたとされている。一方、『豊後国志』〔『豊後国志』巻6 直入郡の項〕によると、志賀氏が直入郡に入ったのは応安2年(1369年)以降のことで、同郡内でも岡城に入る前には木牟礼城(騎牟礼城)を居城としていたという〔『国指定史跡岡城跡パンフレット 岡城の歴史』竹田市教育委員会〕。 天正14年(1586年)、先に耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏を下すべく、薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退し、親次はその功績から豊臣秀吉より天正15年正月3日付けの褒状を受けている〔平井聖監修 菅井靖雄執筆『城 8 九州・沖縄』毎日新聞社 1996年 内 「岡城 若き城主志賀親次」〕。 豊臣秀吉の時代の文禄2年(1593年)文禄の役で大友吉統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、大友氏重臣の親次も岡城を去ることとなった。翌、文禄3年(1594年)播磨国三木から中川秀成〔摂津国茨木城主中川清秀の子〕が移封され、入城後に3年がかりで大規模な修築を施した。 この修築では、縄張設計に石田鶴右衛門、三宅六郎兵衛、石垣普請に山岸金右衛門などが携わり、志賀氏時代の城域の西側天神山に本丸・二の丸・三の丸御殿・櫓を造営し、城の西側を拡張、重臣屋敷群を設けた。本丸に御三階櫓を設け、城門は志賀氏時代の大手口であった下原門に加えて近戸門を開き大手門を東向きの下原門から現在見られる西向きの位置に改め〔加藤清正没後の調定のため熊本へ行く際に訪問した藤堂高虎の助言によるまたは、加藤清正の助言による(慶長18年(1613年))、とされる〕、3口とした。また、城下町は志賀氏時代の挟田に加えて西方に竹田町が整備された。2代久盛の代には清水門が整備され、3代久清の時に西側の重臣団屋敷を接収して西の丸を築き御殿を造営している。岩盤の台地の上に築かれたため、台風や地震、火事などの被害を多く受け、特に8代中川久貞の明和8年(1771年)には本丸、西ノ丸、御廟など城の大半を焼く大火が起きている。 明治維新後、廃城令によって廃城とされ、明治4年(1871年)から翌年にかけて城内の建造物は全て破却され、現在残っているのは高く積み上げられた石垣のみである。なお、昭和62年(1987年)には築城800年祭の記念行事として20日間限定で模擬天守と大手門が復元された〔全体の骨組は木材であるが、石垣に負担が掛からないように壁や瓦は、発泡スチロールを用いての復元となった。ただし鯱だけは、本物の瓦で復元された。1987年12月号 広報おおいた 〕〔懐かし写真館 〕〔竹田市50年の歩み 〕。 昭和11年(1936年)12月16日、「岡城址」として国の史跡に指定され、平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(95番)に選定された。平成2年(1990年)には、「岡城公園」として日本さくら名所100選に選定された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岡城 (豊後国)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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